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神戸地方裁判所 平成3年(ワ)327号 判決

原告

兼亡濱本陽蔵訴訟承継人

濱本幸子

亡濱本陽蔵訴訟承継人

中島恭子

亡濱本陽蔵訴訟承継人

尾崎亜矢子

右三名訴訟代理人弁護士

淺井正

三木浩太郎

池田伸之

被告

銕寛之

兵庫県

右代表者知事

貝原俊民

右両名訴訟代理人弁護士

松岡清人

主文

一  被告らは、各自、原告濱本幸子に対し金七〇四九万八三一三円、同中島恭子に対し金三三五九万九一五六円、同尾崎亜矢子に対し金三三五九万九一五六円及び右各金員に対する昭和六三年一〇月一八日から支払済まで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告らのその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用は、これを一〇分し、その一を原告らの負担とし、その余は被告らの負担とする。

四  この判決第一項は、仮に執行することができる。

但し、被告らが、それぞれもしくは共同して、原告濱本幸子に対し金三五〇〇万円、その余の原告らに各金一七〇〇万円の担保を供するときは、当該原告の右仮執行を免れることができる。

事実及び理由

第一  請求

被告らは、各自、原告濱本幸子(以下「原告幸子」という。)に対し金七二七〇万二〇三一円、同中島恭子(以下「原告恭子」という。)及び同尾崎亜矢子(以下「原告亜矢子」という。)に対し各金三四一四万三五一五円及び右各金員に対する昭和六三年一〇月一八日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

一  本件は、原告幸子の夫で、原告恭子及び原告亜矢子の父が被告兵庫県(以下「被告県」という。)が設置する病院において診察治療を受けたが、その際の同病院の医師被告銕寛之(以下「被告銕」という。)の過失により植物人間の状態となり、その後死亡したとして、被告県に対し不法行為もしくは診療契約上の債務不履行(不完全履行)に基づき、被告銕に対し不法行為に基づき、それぞれ損害賠償を請求した事案である。

二  争いのない事実等

1  当事者

(一) 亡濱本陽蔵(大正一五年八月二二日生。以下「陽蔵」という。)は、平成三年一一月七日死亡した。

原告幸子は陽蔵の妻であり、原告恭子及び原告亜矢子は陽蔵の子である。

(二) 被告県は、循環器疾患の専門病院として姫路循環器病センター(以下「循環器病センター」という。)を設置し、これを管理・運営している地方公共団体である。

(三) 被告銕は、昭和六三年当時循環器病センター診療部循環器科主任医長を務めていた医師である。

2  経過

(一) 陽蔵の循環器病センター受診まで

(1) (陽蔵の病歴)

陽蔵は、昭和四九年ころ、戸谷外科で胃潰瘍の手術を受け(胃の約三分の二を切除)三週間程度入院し、昭和六一年ころ、肝炎を指摘されたこともあったが、それ以外はほとんど病気にかかることもなく、健康な状態であった。ただ、陽蔵は、右胃潰瘍の手術前に、ゴルフ中に不整脈を自覚したが、すぐにおさまったので病院にも行かずにすませたことがあった。(甲二六、原告幸子)

(2) (富山日赤病院への入院)

陽蔵は、昭和六三年一月二〇日夜、出張先の富山市で胸部痛(灼熱感)等を感じ、翌二一日午前九時ころ救急車で富山日赤病院に緊急入院した。陽蔵は、同病院において、心不全(心房細動)、肺水腫と診断された。その後、同病院における保存的治療により正常調律に戻り、心臓カテーテル検査でも心臓左室の期外収縮も見られなかった。また、同病院では、陽蔵につき冠動脈造影検査(エルゴノビン等の負荷試験をしておらず冠動脈攣縮の誘発をかけていないもの)の検査も行われたが、器質的な動脈硬化による狭窄病変は認められず、正常冠動脈像であった。同病院においては、陽蔵に対し、冠動脈血管拡張剤(抗狭心症予防薬)である硝酸イソソルビド(製品名「ニトロールR」。以下「ニトロールR」という。)四錠(一日につき・以下同じ)、カルシウム拮抗剤ニフェジピン(製品名「アダラート」。以下「アダラート」という。)四錠、強心配糖体剤メチルジゴシキン(製品名「ラニラピッド」。以下「ジギタリス」という。)一錠、アスピリン(製品名「小児用バファリン」。以下「小児用バファリン」という。)一錠、心室性不整脈治療剤ジソピラミド(製品名「リスモダン」。以下「リスモダン」という。)三錠、抗潰瘍剤でH受容体拮抗剤のシメチジン(製品名「タガメット」。以下「タガメット」という。)三錠が処方された。陽蔵は、同月二七日右富山日赤病院を退院した。(甲一〔八、九丁〕、一四、二六、原告幸子、被告銕、鑑定)

(3) (関西労災病院への通院)

陽蔵は、その後関西労災病院に転院し、同年二月一五日から一か月に一回の割合で同病院に通院した。同病院での主治医は斉藤滋医師(以下「斉藤医師」という。)で、心エコー検査の結果、陽蔵は中等度の僧帽弁狭窄症と診断された。そして、前記富山日赤病院での投薬と同じ投薬が継続された。(甲一〔八・九枚目〕、二六、原告幸子)

(二) 循環器病センターにおける初診

(1) 昭和六三年一〇月一七日、陽蔵は、右斉藤医師の紹介状と、富山日赤病院において行われた心臓カテーテル検査及び冠動脈造影検査のビデオテープを持参して循環器病センターを訪れ、診察を受けた(以下、同日の診察・治療を「初診」という。)。

斉藤医師の紹介状には、「診断―僧帽弁狭窄症。昭和六三年一月二一日富山旅行中に正常調律から心房細動となり、これとともに肺水腫に移行し富山日赤に入院。その後保存的治療により正常調律となり、その後の心臓カテーテル検査でも左心室と左心房からの期外収縮はほとんどなく、心エコー検査では僧坊弁口面積1.5平方センチメートル等で僧帽弁狭窄症は中程度とみている。」旨及び前記投薬(ニトロールR四錠、アダラート四錠、ジギタリス一錠、小児用バファリン一錠、リスモダン三錠、タガメット三錠)を継続中である旨記載されていた。

また、陽蔵は、戸谷外科の戸谷源由医師の紹介状も持参していたところ、その紹介状には、「陽蔵は昭和六三年一月下旬過労のためか心臓発作を起こし、二月初旬より関西労災病院に転院し斉藤滋医師の受診治療を受けていたが、同医師の転任により循環器病センターの被告銕に治療を依頼したい。」旨記載されていた。

(2) 陽蔵に対する診察は、まず、予診として、担当の寺島充康医師(以下「寺島医師」という。)が、これまでの富山日赤病院入院以降の病状の経過等を聴取し、胸部レントゲン写真、心電図(一二誘導・甲一〔二八丁〕)、血液検査、尿検査を指示し、次いで、被告銕が、心エコー(心臓超音波断層)検査及び三分間心電図を指示し、それらが行われた(右初診の際の心電図を、以下「第一心電図」という。)。右循環器病センター初診時のカルテの現病歴欄(甲一〔一八枚丁〕)には、「約一年前より労作により呼吸困難。昭和六三年一月二〇日胸痛自覚、富山日赤病院入院。」との記載がなされている。

(3) 寺島医師の予診後、被告銕が陽蔵を診察した。陽蔵の右検査結果は、血圧(一三〇/七〇)、脈拍(七八)とも正常で、血液検査にも異常を認めなかったし(カリウムの値は4.53mEq/lであった。)、胸部レントゲン写真にも心拡大は見られず、心電図にも異常は認められなかった。

被告銕は、陽蔵が持参した富山日赤病院での心臓カテーテル検査と冠動脈造影のビデオテープを検討したが、それでは僧帽弁狭窄症のほかに弁膜疾患の合併はなく、冠動脈攣縮も認められず、正常冠動脈像であった。また、聴診で、陽蔵の心臓に一音亢進、拡張期のかん水用雑音を認めた。

被告銕は、右ビデオテープ、心電図、胸部レントゲン写真、心エコー検査の結果等から、陽蔵は中等度の僧帽弁狭窄症(弁口面積1.2平方センチメートル〔通常3.0ないし4.0平方センチメートル〕)と診断し、また手術適応はなく、内科的薬物治療の適応と判断した。

そして、被告銕は、陽蔵を問診した結果もふまえ、陽蔵の胸部症状は僧帽弁狭窄症ないし心室細動(不整脈)による随伴症状であると判断し、狭心症については否定的に判断した。

(4) そこで、被告銕は、内服薬処方の整理を考え、心不全及び心房細動予防のためにジギタリス(強心薬)一錠/日、脳塞栓予防のために小児用バファリン一錠/日を継続投与し、さらに、肺水腫による心不全予防のためにフルイトラン(利尿薬)一錠/日を追加投与することとし、関西労災病院で投与されていた薬剤のうち、リスモダンの投与は、心房細動の不整脈はなく、また、投与するジギタリスが抗不整脈作用をも併せ持つことから、これを止めることとし、タガメットについても、胃潰瘍症状がなく必要性がないことから投与を止めることとした。

そして、被告銕は、ニトロールR及びアダラートについては、陽蔵の狭心症を否定的に判断したことから、両薬剤とも僧帽弁狭窄症に対しては症状を増悪させるため、慎重投与を要すると考え、これらの投与を中止することとした。

そこで、被告銕は、陽蔵に対し、右の薬の処方を行うとともに、約一か月後の外来再受診を予約させた。

(5) 被告銕は、初診日付書面で戸谷医師に対し、陽蔵に対する診断及び診療方針につき「心エコーで弁口面積1.2平方センチメートルの軽度から中程度の僧帽弁狭窄症で、心手術の必要は現在ないと思われる。心房細動が一過性に現れしんどくなることがあるようである。心不全は認めない。冠動脈疾患の合併はないと思う。処方はジギタリス一錠、フルイトラン二錠、バファリン一錠を投薬し経過をみたい。」旨報告した。(甲一、証人寺島、被告銕)

(三) 再診〔初診日翌日の病変〕

(1) 陽蔵は、翌一八日午後五時ころ、執務中に気分不良を訴えて帰宅し、家族に胸や喉の辺りの圧迫感、背中・肩甲骨部の痛み等を訴えた。(甲二六、原告幸子)

(2) 陽蔵は、同日午後五時二〇分ころ、原告幸子らに付き添われて循環器病センターの救急外来に来院した(その際の診察・治療を、以下「再診」という。)。

右陽蔵を、被告銕と寺島医師が診察した。陽蔵は、主として体がだるいということを訴え、午後から、特に午後四時過ぎからしんどくなったと説明した。陽蔵は、発汗(冷汗)があり、両肩甲骨部痛を訴えた。右再診時の看護記録には、「両肩甲骨部痛(+)、発汗(+)、胸痛(−)、息苦しさ(−)」と記載されている。

陽蔵は、検査の結果、血圧には一五四/八〇であり、心拍数は午後五時二〇分には五八/分を数えたが、心電図モニター上では不整脈は認められず、同二八分には心拍数が五〇ないし四七/分と徐脈を示した。

そして、陽蔵は、午後五時二五分に実施した心電図(甲一〔三一、三二頁〕・以下「第二心電図」という。)では、Ⅱ、Ⅲ、aVF(以下「aVF」と表示する。)、V(以下「V4」と表示し、その他のV誘導部位も同様の表示をする。)、V5、V6の各誘導にST低下が認められた。被告銕は、陽蔵に対し、生理的食塩水一〇〇ミリリットルで静脈確保のうえ、硫酸アトロピン一アンプルの静脈注射を施した。

その後、陽蔵の冷汗は消失し、血圧は一六〇/九〇となり、気分不良は軽減したが、心拍数は六六/分までしか増加せず、両肩甲骨部痛はなお残った。

しかし、被告銕は、陽蔵に重篤な心不全や狭心症は考えられず、自宅で経過観察すれば足りるものと判断し、午後六時四八分ころ陽蔵を帰宅させた。その際、被告銕は、右心電図のST低下は、ジギタリスの服用による効果の可能性が高いと判断し、陽蔵に対して翌日からのジギタリスの服用を中止するよう指示した。

(甲一、証人寺島、被告銕)

(四) 緊急入院

(1) 陽蔵は、右循環器病センターから帰宅し、同日(一八日)午後七時ころ就寝したが、午後七時三〇分ころ、急に苦悶状態に陥って呼吸停止の状態となり、午後八時一二分ころ、循環器病センターの救急外来に搬送され、入院した(以下「緊急入院」という。)。(甲二、二六、原告幸子)

(2) 右緊急入院時の陽蔵の様態は、意識消失(意識レベル三〇〇)、呼吸停止、脈も触知不能、瞳孔は左右とも四ミリメートルとやや拡大気味で、対光反射は明らかでなかった。

心電図で心室細動が確認されたので直ちに被告銕、寺島医師の他、多数の医師が処置にあたり、心肺蘇生術を施し、心臓マッサージ、電気的除細動(DCショック。以下「DCショック」という。)、気管内挿管による呼吸管理、カテコールアミンなどの昇圧剤の投与等が行われた。

午後八時四八分ころ、陽蔵の心臓は正常リズム(洞調律)に復帰し、血圧も一二〇台となったが、意識の回復は見られなかった。

なお、この時点の心エコー検査では、陽蔵の左心室壁運動に異常は認められなかった。

(3) 右蘇生後、陽蔵は集中治療室に収容され、被告銕及び寺島医師が中心となって診療が継続され、午後九時〇〇分、同三八分、同四二分、翌一九日午前〇時〇〇分、にそれぞれ心電図検査が行われた。

① 午後九時〇〇分の心電図(甲七〔二丁〕)は、蘇生後のもので、正常洞調律であるが、V4からV6各誘導で著明なST低下が認められた。

② 午後九時三八分の心電図(甲七〔三丁〕)は、Ⅱ、Ⅲ、aVFの各誘導のST上昇とV4とV6の各誘導でST下降が認められた。

③午後九時四二分の心電図(甲七〔五、六丁〕)では、Ⅱ、Ⅲ、aVFの各誘導のST上昇は軽減を示した。

④ 翌一九日午前〇時〇〇分の心電図(甲七〔五、六丁〕)では、右ST上昇は消失した。

(4) 翌一九日、陽蔵は、脈拍一〇〇以上/分で生命が安定してきたので、カテコールアミンの投与が中止された。

翌二〇日午前一時の陽蔵の心電図(甲七〔二三、二四丁〕)では、STが基線に向かって下降し、STの終末部が陰性となり(T終末部陰転)、翌二一日には、STが基線に近づき陰性Tはさらに深くなった。

(5) また、陽蔵のクレアチリン酸酵素(CPK。以下「CPK」という。)については、同月一八日午後八時三〇分ころのCPK値は一一九、午後一一時ころのCPK値は一三四八、CPK―MB値は三〇(2.2パーセント〔正常値は三パーセント未満〕)であったところ、同月二〇日午前一時のCPK値は四四一九、CPK―MB値は4.0パーセント、午前五時のCPK値は四一二八、CPK―MBは4.3パーセント、午前九時のCPK値は三七四二、CPK―MBは4.7パーセントであった。

(6) 同月二一午前行われた心エコー検査(甲二〔四六丁〕はその報告書)では、Cχ(回旋技)及びRCA(右冠状動脈)領域に共力失調が認められた。そして、同日のカルテ(甲二〔一三丁〕)には、「Cχ RCA領域wa11 motion(壁運動低下)、Ⅱ、Ⅲ、aVF、V4〜V6 coronaryT(冠性T様) negateive Twave(T波陰性) AMI(急性心筋梗塞)か?」との記載がなされている。

(7) 同年一一月二五日、陽蔵は、タリウムシンチグラム検査(心筋の脱落・壊死の検査)で小欠損が認められた。

(8) 同年一二月三日、陽蔵は、意識回復しないまま、集中治療室より循環器科病棟に転室した。

(甲二ないし四、七、証人寺島、被告銕)

(五) 聖マリア病院への転院

(1) 陽蔵は、平成元年四月一八日に姫路聖マリア病院に転院した。

寺島医師の姫路聖マリア病院に対する紹介状には、「蘇生後のECG(心電図)にて、Ⅱ、Ⅲ、aVF、ST上昇、CPKも一三四八まで上昇、心エコーにてwall motion(壁の移動)の異常及びTIシンチ(タリウムシンチグラム)にてsma11 defect(小欠損)を認め、spasm(痙攣)によるMyocardial Infarkt(心筋梗塞)→VT(心室性頻拍)、Vf(心室細動)が考えられます。」などと記載された。

また、陽蔵は、循環器病センター神経内科の大角幸雄医師により、心室細動を原因とする体幹機能障害(両側屈曲性対麻痺及び体幹筋麻痺により座位が不可能、左上肢は軽度の巧緻運動障害、右上肢は不全麻痺)で、身体障害等級一級相当と診断された。

(2) 陽蔵は、姫路聖マリア病院で、僧帽弁狭窄症、不整脈、低酸素脳症、中枢性四肢麻痺と診断された。

(甲一、一七、弁論の全趣旨)

(六) 協立温泉病院への転院

陽蔵は、平成三年六月二八日、協立温泉病院へ転院した。

陽蔵は、同年七月九日、同月一八日にそれぞれ嚥下性肺炎となり、同年八月一五日尿路感染症、同年九月二四日白血球一万六一〇〇、同年一〇月七日肺炎(白血球一万三六〇〇)となり、同月一二日心室性頻拍発作でカウンターショックが施行され(白血球一万九〇〇〇)、同月一四日心室性頻拍発作でカウンターショックが施行され心室性頻拍発作は回復した。

また、陽蔵は、同月二二日白血球一万六三〇〇、同月二五日熱は下がるも脈拍一五〇から一七〇/分となり、同年一一月二日肺炎となり、同月五日肺炎が増悪し急性呼吸不全となり、同月七日一一時五分呼吸停止し、同日午後三時一六分死亡した。

(甲一七、一八)

第三  争点と当事者の主張

一  陽蔵の狭心症の有無(陽蔵の緊急入院時の心室細動の原因は何か)

(原告ら)

1 陽蔵は循環器病センター初診当時狭心症であり、その緊急入院時の心室細動の原因は冠攣縮性狭心症による心筋虚血にある。その理由・根拠は、以下のとおりである。

(一) (富山日赤病院・関西労災病院の処置)

陽蔵は、富山日赤病院及び関西労災病院では、僧帽弁狭窄症と診断されたが、血管攣縮性狭心症ないし冠動脈攣縮再発のおそれも否定できないものとして、ニトロールR及びアダラートの継続投与を受けていた。ニトロールR及びアダラートの併用目的は、狭心症の発作の予防以外考えられない。

(二) (処方変更の危険性)

被告銕は、陽蔵の初診時に、ニトロールR及びアダラート投与の全面中止という処方変更を行ったか、硝酸塩やカルシウム拮抗剤の投薬中止後、心筋梗塞や急死が発生したとの報告が多くの医学文献に紹介されている。

(三) (狭心症の特徴的症状の発現)

陽蔵は、昭和六三年一〇月一八日午後四時ころから、狭心症に特徴的に見られる胸部苦悶、徐脈、冷汗、肩甲骨部痛等の症状が発現した。

狭心症(心筋虚血)の痛みとして肩甲骨部のみに痛みが生じることがあることは、多くの成書でも指摘されている。また、心筋虚血の場合、悪心、嘔吐、冷汗、失神等を来すことも稀ではなく、特に心筋下壁の強い虚血の場合は(陽蔵の場合は、下壁梗塞と考えられる。)、徐脈を来すものである。これらはすべて副交感神経の緊張(迷走神経反射)であり、心筋虚血の場合に副交感神経が高まる場合があるのである。

したがって、陽蔵に見られた症状は、狭心症を疑うに足りる症状である。

(四) (第二心電図の異常)

再診の際の第二心電図では、第一心電図に比べて、心拍数が六〇から五三に減少して徐脈傾向が進み、Ⅱ、Ⅲ、aVF、V4、V5、V6誘導でST低下を示した。このST低下は典型的な下向型の低下であり、心筋虚血を端的に表す虚血性変化であったものである。第一心電図は正常であったが、この第一心電図と第二心電図を対照すれば、右STの異常及びこの異常(低下)の型が虚血性変化を示す典型的な下向型低下であることは明白であった。

(五) (ST低下の僧帽弁狭窄症の無因性)

僧帽弁狭窄症の重症のものである場合は、心電図においてST低下も起こり得るが、陽蔵の僧帽弁狭窄症は軽度ないし中等度のものであり、環境器病センターで行った心エコーからも心室肥大がないことは明らかである。また、ST低下を来すほどの心室肥大を伴う重症の僧帽弁狭窄症であれば、ST低下だけでなく、心電図の軸自体がずれるなど、到底正常心電図とはいえないような心電図波型を示すものであり、第一心電図が正常であったことも大きく矛盾するものである。

(六) (再診時の徐脈の原因)

(1) 一〇月一八日の再診時の徐脈の原因が、「副交感神経緊張による」ものであることは、原告らも否定はしない。しかし、それは心筋虚血(狭心症)に伴う副交感神経緊張によるものである。硫酸アトロピンの投与により陽蔵の徐脈・発汗が改善された後も、陽蔵の両肩甲骨部痛が持続していたことは、右陽蔵の徐脈の原因が単なる副交感神経緊張によるものではなく、心筋虚血(狭心症)に伴う副交感神経緊張によるものであることを示している。

(2) 被告銕が再診の際に陽蔵に対してジギタリスの投与を中止した理由は、徐脈にあった。そのことは、被告銕が初診時のニトロールR及びアダラート投与中止時点でジギタリスの投与を中止したのであれば格別、徐脈が出てからジギタリスの投与を中止していること、一〇月一八日のカルテ(甲一〔二〇丁〕)には「HR(患者)四〇代brady cardia(徐脈)」と記載され、さらに緊急入院時のカルテ(甲二〔三丁〕)にも「HR四〇代とbrady cardiaのためラニラピッド(ジギタリス)中止」と記載されていることなどから明白である。もし被告銕において徐脈の原因がジギタリスにはないと考えたとするならば、ジギタリスの投与を中止する理由はないのである。すなわち、初診時に陽蔵に対する投薬の種類を変更した際、従来から陽蔵が継続的に服用していたジギタリスについてはその必要性を認めた上でそのまま投薬を継続したのであって、徐脈の原因とは考えられないジギタリスを再診の際に中止する必要はないからである。

また、「低カリウム血症」を発症しているというカルテの記載はまったくないばかりか、初診時に行われた血液検査でカリウムの数値4.53mEq/lと正常であったものである(正常範囲3.5ないし5.0)。また、前日まで服用していた利尿剤(その副作用で低カリウム血症になる場合もある。)をラシックスから利尿効能がより弱いフルイトランに投薬変更していたもので、低カリウム血症になるはずはまったくない。

したがって、被告銕がジギタリスの投与を中止した理由は、その投与による低カリウム血症等の合併による中毒症状の発現の可能性によるものではなく、徐脈の原因がジギタリスにあると考えたためであることは明らかである。

(七) (主治医による冠攣縮性の狭心症発症の自認)

陽蔵の循環器病センターから聖マリア病院への転医の際に陽蔵の主治医の寺島医師が書いた紹介状には前記第二、二2(五)(1)のとおりの記載があり、右記載は、諸検査上の検査データによる根拠を示しながら、冠動脈の攣縮(冠攣縮性狭心症)から心筋梗塞、さらには心室細動に至った経緯を主治医自身が認めていることを端的に示すものである。

さらに、右紹介状の投薬欄には、「シグマート4T(錠)、ニトロールR4T(錠)」と記載されている。シグマート(ニコランジル)及びニトロールRはいずれも狭心症治療薬であり、特にシグマートの適応症は狭心症のみであり、したがって、被告らにおいて少なくとも陽蔵の緊急入院後においては陽蔵の症状を狭心症ととらえ、右薬剤の投与を再度開始して狭心症に対する治療を継続していることを表すものである。

(八) (緊急入院後の心電図の変化・心筋梗塞の発症)

緊急入院した当日の午後九時三八分の心電図を見ると、Ⅱ、Ⅲ、aVF誘導にはSTの上昇という心筋梗塞の初期波型が出ている。また、右心電図のⅡ、Ⅲには異常Q波も発現している。ところが、一〇月二〇日午前一時の心電図では、STが基線に向かって下降し、STの終末部が陰性となり(T終末部陰転)、回復に向かっている。さらに、同月二一日には、STが基線に近づき陰性Tはさらに深くなり、対称性の深い冠性Tが見られる状態となり、回復しているものである。入院カルテにも、「Ⅱ、Ⅲ、aVF、V4―V6coronary(冠性)T様」と記載され(甲二〔一三丁〕)、冠性Tが出現している点の言及があるのである。

以上の心電図の変化は、心筋梗塞の典型的変化を辿っており、その梗塞部位は、Ⅱ、Ⅲ、aVFに異常の現れる下壁梗塞であったものである。そして、心筋梗塞に至る前段階としてSTの下向低下が認められ、心筋虚血から心筋梗塞へ進んだと見るのが通常の考え方、見方である。

(九) (心エコー)

緊急入院後の一〇月二一日の心エコー検査報告書(甲二〔四六丁))には、前記第二、二2(四)(6)のとおり心筋が正常に共同して収縮していないことを示す検査結果の記載があり、それは心筋の機能障害(心筋の壊死)を表し、心筋梗塞の所見としてとらえ得るものである。そして、同日のカルテには、前記第二、二2(四)(6)のとおりの心筋梗塞が疑われる所見の記載がなされ、寺島医師の前記聖マリア病院に対する紹介状においても、壁運動の異常やタリウムシンチグラムで小欠損が認められる旨の記載があるのである。これらはいずれも陽蔵の心筋壊死(心筋梗塞)の所見を表すものである。

(一〇) (血清酵素の変化)

心筋梗塞の補助診断として血清酵素の検査がある。これは、心筋梗塞により心筋の壊死が生じて心筋の酵素が血液に逸脱し、酵素の数値が増えるもので、心筋の壊死、心筋梗塞の診断をなしうるものである。一般的にCPK検査があるが、そのうち心筋梗塞の固有の酵素を対象としてCK―MB検査があり、これについて陽蔵の場合を見てみると、

一〇月一八日 CPK 一三四八

一〇月二〇日 CPK 四四一九

CPK―MB

四〇〜四四

と明らかに異常な数値(正常範囲は、CPK五ないし三〇、CPK―MB〇ないし一〇)を示しており、心筋梗塞であると診断しうるものである。

被告ら主張の「CPK―MBが総CPKの少なくとも三パーセント以上を占めることとならないと心筋由来のCPK上昇とは考えられない」との考え方は正当であり、原告らは何らその点につき争うものではないが、陽蔵についての検査データーには、CPK―MBが総CPK中において占める割合が三パーセントを超えているものが相当数見受けられるのである。

右検査データは、CPKの異常な上昇が単にDCショックによるものだけではなく、心筋梗塞に由来するものであることを示すものである。

(一一) 富山日赤病院での冠動脈造影検査の結果では冠動脈に病変(狭窄)は認められなかったが、冠動脈に器質的な病変(狭窄)が認められなくても狭心症である場合もあるのである。冠攣縮性狭心症(陽蔵の場合がそれ)は、非発作時には心電図上から有意の変化は見い出せず(発作時にはSTの虚血性変化を生じる)、負荷をかける(エルゴノヴィン負荷試験)等して攣縮の誘発を行って冠動脈造影を行っても、陽性率は八〇ないし九〇パーセントであり、仮に冠動脈攣縮誘発試験を行って陰性であっても、冠動脈攣縮狭心症の発作を完全には否定できないのである。富山日赤病院で行われた冠動脈造影検査は右の冠動脈攣縮誘発試験を行ったものでもなかったのである。

また、粥状硬化症の器質的な変化を伴わない冠動脈攣縮は欧米に比べ日本に多く、冠動脈攣縮性狭心症患者の約七〇パーセントが粥状硬化症冠動脈病変はないか軽度に過ぎないものである。

したがって、右冠動脈造影検査の結果が正常冠動脈像であったとしても狭心症を否定する根拠とはならない。

また、第一心電図の結果は正常であり、狭心症その他の冠動脈疾患の症状は表われていないが、右のとおり、狭心症は現に発作の起こっている時は心電図上に明らかな変化が生じるが、非発作時には正常な心電図となるから、心電図だけから診断することはできない。したがって、第一心電図の結果が正常であったとしても、狭心症その他の冠動脈疾患がないと断定する根拠にはなりえない。

(一二) 心筋梗塞については、症候、心電図変化、CPK値の上昇等から比較的容易に診断できるものとされているところ、以上の緊急入院以後の陽蔵の症状、検査結果は心筋梗塞の兆候すべてを満たしており、陽蔵が冠攣縮性狭心症(心筋虚血)から心筋梗塞に至ったことは明白である。

2 被告らの主張について

(一) 被告らは、僧帽弁狭窄症と冠攣縮性狭心症の合併症例は見られないと主張する。確かに右症例の存在を主張する文献や報告例は見当たらないが、逆に、僧帽弁狭窄症に冠攣縮性狭心症は合併しないとする報告や文献もないのであり、合併は起こりにくいという統計的な分析をした文献もない。現に、心臓弁膜症には動脈硬化による虚血性心疾患は合併しないといわれながら、最近になってその合併が報告されていることもあり(被告ら平成七年三月三日付準備書面、甲三六)、僧帽弁狭窄症に冠攣縮性狭心症はありえないとするのは、根拠薄弱な早断というほかない。

(二) また、被告らは、緊急入院当日午後九時の時点のST低下は著明にあるものの、その後行われた心エコーには壁運動の異常はなく正常であったことから、陽蔵は虚血性発作があったが心筋梗塞ではなく、集中治療室に入室後のSTを示した午後九時三八分の時点で冠攣縮を発症したもので、これにより心筋スタンニングが生じ、その原因は、蘇生による処置、とりわけカテコラミンの大量投与により惹起されたもので、心筋梗塞によるものではなく、またそれ以前の冠攣縮とはまったく別の原因によるものである旨主張する。

しかし、右被告らの主張は、短時間の間に経時的に生じている症状や心電図上の変化の連続性を、蘇生時点で分断し、蘇生後の冠攣縮または心筋梗塞をその直前の心停止という事態とまったく無関係とする主張で、一見して不自然というほかない。

また、冠攣縮が蘇生直後のカテコラミンにより一時的に惹起されたものであるなら、その薬効がなくなって以降は冠攣縮の心配がないことになるが、それ以降も狭心症治療薬であるシグマート、ニトロールを継続的に高単位で投与していることをどう説明するのであろうか。

蘇生直後の心エコー上壁運動が正常であったとする点を、右経時的変化を分断する最有力根拠として被告らは提示するが、それは決め手とはならない。心エコーは心筋の壁運動の異常を超音波で走査しているにすぎず、心筋梗塞による心筋の壊死といった微細な変化までトレースしうるものではない。緊急入院後の一一月一五日には心エコーは正常に回復しているが、同月二五日に行われたタリウムシンチグラム検査では小欠損を示しており、心エコー上は壁運動が正常で異常がないように見えても、実際には心筋壊死を示していることはありうるのである。

(三) さらに、被告らは、陽蔵の緊急入院前の心室細動の原因を、僧帽弁狭窄症に合併する冠動脈塞栓症による心筋虚血と主張する。

しかし、僧帽弁狭窄症では、血栓は左心房で主として発生し、血流に乗って、左心房→冠動脈→大動脈→全身の順に移動して行く。冠動脈には、主として心臓の拡張期に血液が流れ、冠動脈は大動脈の起始部に当たり、流速が大きく、脳や肺等の全身の塞栓症状を示さずに、冠塞栓のみを生じることはまず考えられない。また、冠塞栓症自体が非常に稀な疾患であり、さらに冠塞栓症を起こすような場合は、左心房内の心エコーで容易に血栓の存在を証明しうるほどの重症なもののはずである(被告らは冠塞栓症の可能性を当初否定していたが、その否定根拠はまさにこの点である。)。心エコーで血栓の証明されないような軽度ないし中等度の僧帽弁狭窄症で、しかも全身性の塞栓症状や既往歴のない症例について突然に冠塞栓症が生じるという極めて稀な現象を、被告は何の根拠もなく主張するものである。

3 以上のとおり、陽蔵は循環器病センター初診当時狭心症であり、その緊急入院時の心室細動の原因は冠攣縮性狭心症による心筋虚血にあったものである。

(被告ら)

1 初診時における陽蔵の狭心症の否定的診断について

陽蔵が、僧帽弁狭窄症のほかに、狭心症(冠動脈攣縮性狭心症)を併せて持っていたことは、以下の事実から否定的に見るべきものである。

(一) (冠動脈造影の結果・病変歴等)

富山日赤病院の冠動脈造影のビデオテープで、器質的な動脈硬化による狭窄病変は認められず、正常冠動脈像であった。

また、攣縮性狭心症は、その八〇パーセントないし九〇パーセントが病歴だけで診断できるものであるが、陽蔵の病歴において、狭心症に特徴的な訴えはなかった。

すなわち、被告銕は、初診時、問診で富山日赤病院入院前後の胸部痛について、その起こり方や持続時間など冠動脈攣縮性狭心症に特徴的な症状の有無を尋ねたが、その症状は冠動脈攣縮性狭心症を示唆するような症状ではなかった。

ところで、狭心症の発作は、通常数分で消失するものである(もっとも、中には三〇分以上持続する場合もないではないが、そのように三〇分以上も持続する場合には急性心筋梗塞が疑われるのである。)。臨床において、六時間とか一二時間とか持続する狭心症は見られないのである。

陽蔵の右症状を狭心症とすれば、その発作は一二時間以上も持続したことになり、そのような場合、重症不安定狭心症から急性心筋梗塞に移行するはずであるのに、そのような形跡も見られない。

なお、富山日赤病院の入院期間は一週間程度と短いこと、重症の心不全では行われない心臓カテーテル及び冠動脈造影検査が行われていることから、その心不全は重症のものではなかったことが推認される。

(二) (富山日赤病院の診断・治療)

富山日赤病院においても、冠動脈攣縮性狭心症を証明するような資料は見当たらない。

すなわち、富山日赤病院の担当医師は、陽蔵に対し、風邪から肺炎を起こしかけ、以前からあった僧帽弁狭窄症が急に非代償性の状態になり、心房細動、心不全状態になったと思われる旨を説明しており、狭心症を認めているわけではない。また、同病院では、狭心症の合併も否定できないと思い、念のため、二五日に冠動脈造影をしてみる旨を説明し、その検査を行っているが、冠動脈造影の結果は全く正常なものであった。したがって、この時点で、冠動脈に重症の狭窄病変を伴う不安定狭心症は否定され、冠動脈攣縮性狭心症の診断根拠とされるエルゴノヴィン負荷試験の必要性も認めず、これを行わなかったものと推認されるのである。

他方、狭心症が疑われれば、ニトログリセリン錠(狭心症の特効薬)を持たせるのが循環器医の常識であるが、富山日赤病院退院にあたり、ニトログリセリン錠が処方された形跡も見られない。このことは、狭心症の可能性に重きを置いていなかったことを示すものと考えられる。

ちなみに、ニトログリセリンは、現に発作を起こしているときに著効を示すものであり、発作防止のために継続的に投与する薬剤ではないが、狭心症の場合には、いったん発作が起こると致命的ともなる場合もあるので、発作の際には、これを使用するのが常識であり、狭心症の診断を得た場合に、患者にこれを持たせないというようなことは考えられない。

結局のところ、富山日赤病院でも、冠動脈攣縮性狭心症を肯定的にみた診断は全くないのである。

したがって、富山日赤病院で、ニトロールR及びアダラートが投薬されたのは、おそらく、旅行先でもあり、念のために投薬したものと推認されるのであり、それら二薬剤の投薬があることをもって、狭心症があることの根拠とすることはできない。

(三) (関西労災病院の診断・治療)

前医の斎藤医師の紹介状にも、富山旅行中の心臓発作は、僧帽弁狭窄症による心房細動とともにそれによる肺水腫(心不全)を来したものである旨、保存的療法により洞調律に戻り改善した旨の記載があるのみで、狭心症に関する指摘は一切なかった。

しかるに、関西労災病院においても、富山日赤病院から継続投与ということで、二トロールR及びアダラートの二薬剤が投薬されている記載があることから、被告銕としても、陽蔵に両薬剤が投与されている理由を尋ねたが、はじめ富山日赤病院で投与されたからである旨の返答であった。すなわち、関西労災病院においては、はじめ富山日赤病院で投与されていたところから、引き続いて投薬していたという趣旨であった。したがって、両薬剤の投薬があることから、関西労災病院において、狭心症の疑いを持っていたともいえない。

(四) (症例の不存在)

以前には、心臓弁膜症には動脈硬化による虚血性心疾患は合併しないと言われてきたが、弁膜症患者が長寿になってきた現在では、右両疾患の合併も見られるようになってきた。しかし、現在まで、僧帽弁狭窄症に冠動脈攣縮性狭心症を合併していたとする報告例はない。

(五) 以上のとおり、僧帽弁狭窄症があって、冠動脈造影は正常冠動脈像であり、狭心症を思わせる病歴・症状はないのであるから、まず狭心症はないと判断するのが妥当であり、陽蔵の狭心症(冠動脈疾患)は、病態的にも診断学的にも、これを否定的に診るべきものであった。

2 再診時の陽蔵の症状について

(一) (狭心症の兆候・症状の不存在)

再診時、陽蔵の発汗及び両肩甲骨部痛の訴えはあったが、胸部痛・息苦しさの訴えはなかった。

肩甲骨部痛が狭心症発作の一症状として現れる場合も稀にも見られるが、陽蔵の両肩甲骨部痛の症状をもって狭心症を示唆するものとはいえない。狭心症の発作は、通常数分で消失するものである。もっとも、中には五分から三〇分以上も持続する場合もないではないが、そのように狭心症の症状が三〇分以上も持続する場合には急性心筋梗塞が疑われるのである。ところが、陽蔵の症状は、狭心症発作にしては、午後四時ころからとしても約二時間と持続時間が長く、かつ、診察の間、心電図上ST低下を認めながらも、終始症状の悪化や急性心筋梗塞は見られなかったのであり、症状の持続時間からみても狭心症であることは否定されるべきものであった。

他方、肩甲骨部痛は多くの疾患にみられるが、僧帽弁狭窄症でも両肩甲骨部痛を来すことがあり、陽蔵の症状は、僧帽弁狭窄症による心拍出量の低下に伴う一連の症状と考えられるものであった。

なお、僧帽弁狭窄症に伴う心拍出量の低下のときにも、易疲労感や下肢の冷感は見られる。

したがって、再診時の陽蔵の症状は、狭心症に特徴的な症状に乏しいものであった。

(二) (硫酸アトロピン静脈注射の効果)

陽蔵に対し、副交感神経緊張を除去するため、点滴を行い、硫酸アトロピン一アンプルの静脈注射を行ったところ、冷汗は消失し、心拍数は約一〇分後に六六/分まで増加し、気分不良も軽減した。

硫酸アトロピンは、迷走神経性徐脈等に効き、心拍数を増加させる医薬であり、迷走神経の過緊張には有効であるが、狭心症に対しては殆ど効果を示さない。したがって、もし陽蔵の体調変化が狭心症によるものであったとすれば、硫酸アトロピンのみでは回復しなかったはずである。

(三) (第二心電図)

第二心電図のST低下が心筋虚血(狭心症)を示すものと診るには、陽蔵の臨床症状・臨床経過との不一致がある。すなわち、

(1) 初診時の第一心電図では、第二心電図のようなST低下は認められなかった。

(2) 狭心症では、発作時にⅡ、Ⅲ、aVF、V4、V5、V6の各誘導のST低下を認めれば、右冠動脈の狭窄又は攣縮が考えられ、その結果、右心室が動かなくなり、血圧低下が認められるはずであるのに、血圧は、逆に一五四/八〇とやや高く、その後も一六〇/九〇とむしろ高値を示している。すなわち、右冠動脈の攣縮が持続すれば、血圧低下や心室性期外収縮(不整脈)が出現するので、客観的にも狭心症(重症)であると判断できるのであるが、陽蔵にかかる所見は認められない。

(3) 第二心電図には、徐脈のほかに、ST・T波異常及びU波が認められるところ、鑑定人村松準の鑑定の結果(以下「村松鑑定」ともいう。)によれば、第二心電図の変化(ST部分の形状)は心筋虚血の存在が考慮されるものとされている。その理由の一つとして、ジギタリス効果(中毒)ではQT間隔の短縮をみるが、第二心電図にはそれがみられず、QT間隔は0.48秒に延長しており、脈拍数により補正されたQTc値は0.438で、正常範囲0.34ないし0.40に比して、延長しているとする。

しかし、一般に、QTc値の正常範囲は0.35ないし0.44とされており、右QTc値は正常範囲内である。(ちなみに、心室細動などの致死的不整脈を来すようなQTc値延長は、先天性では0.45以上、陽蔵のような後天性では0.50以上と考えられている。)

そして、陽蔵の場合には、前日まで、前医のリスモダンが投与されていたが、この薬剤はQT間隔の延長を来すことが知られており、ジギタリスのQT間隔の短縮を、この薬剤のQT延長作用が相殺したことが考えられ、この心電図変化から、ジギタリス効果を否定し、直ちに心筋虚血と診断することはできない。

(4) 第二心電図のST低下は、ジギタリス効果により、冠動脈疾患を持たない、ジギタリス服用中の僧帽弁狭窄症患者にもしばしば見られるものである。このST低下は、心房細動例においてその頻度が高く、陽蔵のような洞調律例にも認められ、運動によってさらにST部分が低下するのであるが、これらの変化は虚血性心疾患のない例においても認められるのである。

そして、臨床上ジギタリス効果が急に発現することはあり、陽蔵の場合には、ジギタリスを継続的に高単位で服用していたので、一八日に利尿剤(フルイトラン)が入ったことによって、急にジギタリス効果(または中毒)が発現したことが考えられるのである。

(5) (低カリウム血症)

第二心電図で、U波が前胸部誘導で認められるということは、第一義的に低カリウム血症を疑う根拠となる。

村松鑑定は、低カリウム血症の診断基準により、合計評点は一点であるとして、低カリウム血症とは診断できないとしているが、実際にはその合計評点は三点であり、この診断基準によっても、低カリウム血症と診断することができるのである。

また、ラシックスを一〇月一七日以前に内服されていなかったとすれば(関西労災病院ではラシックスは投与されていない。)、同月一八日のフルイトラン内服により、血清カリウムの低下を来した可能性もあり、前日(一七日)のカリウム値が正常であったとしても、低カリウム血症の可能性を否定することはできないのである。

ちなみに、低カルウム血症になると、ジギタリスの効果が非常に強く出てくるのである。

(6) そして、心電図のST低下は、狭心症のような心筋虚血に特有のものではなく、ジギタリス等薬剤の服用や心筋炎・心肥大・電解質異常など種々の原因で生じることはよく知られており、心筋虚血を示す特異的所見もなく、積極的に心筋虚血を断定すべきものではない。

また、第二心電図で、冠動脈攣縮性狭心症の可能性も一〇〇パーセント否定することはできないが、冠動脈攣縮性狭心症というのは、文献的にも臨床経験上からも、ほとんどの場合にSTが上昇するのに対して、陽蔵の場合には下降しているので、その可能性は非常に低くなるのである。つまり、STの下がっている状態を見て、冠動脈攣縮性狭心症とは診断し難いのであり、普通は冠動脈攣縮性狭心症とは診断しないのである。

さらに、富山日赤病院での冠動脈造影結果の正常と陽蔵の症状・病歴、ジギタリス内服・リスモダン内服・フルイトラン内服の各事実を考慮した場合には、この心電図変化をもって、心筋虚血と判断するには、臨床的には無理があると考えられるのである。

(7) 仮に、第二心電図におけるST下降が遷延し、左室前壁及び下壁に及ぶ広範な心筋虚血が存在したものとするならば、通常、左室の壁運動(収縮力)は低下する。また、冠動脈は広範囲に攣縮するため、症状は極めて重篤となり、一時間異常も持続すれば、血圧は下がり、心筋梗塞に移行し、左室の壁運動も急には回復しないはずである。

ところが、前述のとおり、実際には、緊急入院時の診療中、心室細動に対して、電気的除細動をした後の心エコー検査において、左室の壁運動異常はまったく認められておらず、長時間にわたる心筋虚血が存在したとは考え難いのである。

(8) 第二心電図の変化を、心筋虚血とした場合には、冠動脈病変として、一応、大きな右冠動脈又は左冠動脈回旋枝の九九パーセント狭窄が想定されることとなるが、動脈硬化等による器質的狭窄は否定されているから、冠動脈の攣縮の可能性と、心房内血栓遊離による冠動脈塞栓症の可能性が考えられることとなる。

しかしながら、ジギタリス効果(中毒)とした場合でも、第二心電図のような変化はしばしば見られる。

ところで、前記のとおり、冠動脈攣縮性狭心症では、通常、ST・T変化はST上昇であり、ST低下は比較的稀である。

したがって、心電図上、ST上昇を見た場合には、誰もが冠動脈攣縮性狭心症と判断するが、ST低下を見た場合、陽蔵の場合では、まずジギタリス効果(中毒)を考えるのが専門医の常識的判断であると考えられる。

(9) したがって、前述の富山日赤病院での冠動脈造影正常の結果、心エコー検査の結果、紹介状の内容・投薬内容などを総合してみれば、陽蔵の症状は、狭心症というよりは、ジギタリス効果の発現と診るのが妥当である。

3 緊急入院時の心室細動の原因について

緊急入院時の心室細動発症の原因は、僧帽弁狭窄症に合併する冠動脈塞栓症による心筋虚血にある。

(一) 陽蔵の低酸素性脳症の直接原因が緊急入院前の心室細動にあることは、疑う余地がないが、問題はその心室細動の原因であり、事後的に探究、検討すると、心室細動の原因として、一応、①ジギタリス中毒、②心筋虚血、③低カリウム血症に随伴したもの、④薬剤、⑤重症心不全状態に随伴したものが考えられる。

そして、右の中でも①または②の可能性が高く、救急来院時における心肺蘇生後の心電図変化、CPK(心筋逸脱酸素)等の検査結果等を総合判断すると、①のジギタリス中毒によるものより、②の心筋虚血による可能性の方が大きく、右冠動脈又は左冠動脈回旋枝の病変(攣縮又は塞栓)による心筋虚血から心室細動を来したものと考えられる。

しかしながら、この心筋虚血は、原告らのいう冠動脈攣縮性狭心症によるものではなく、心電図変化や、僧帽弁狭窄症が血栓を起こしやすいことなどから、僧帽弁狭窄症に合併する冠動脈塞栓症によるものと認あるのが相当である。

(二) 冠動脈攣縮性狭心症は、冠動脈の痙攣から、心筋への血液の供給が減少ないし途絶えることにより、虚血発作が起こるものであり、冠動脈塞栓症は、僧帽弁狭窄症患者では左心房内に血栓を生じやすく、その壁在血栓が何かの拍子に遊離し、血流に乗って飛び、冠動脈につまり、虚血を来すものである。

ちなみに、この塞栓症の予防のためには、ワーファリンが投与されるが、ワーファリンは、速効性の薬剤ではなく、血栓予防効果発現までには、投与開始から七日程度を要するものである。

4 集中治療室におけるST上昇等について

(一) 緊急入院後の集中治療室においても、急性心筋梗塞の所見は見られない。

(1) 午後九時〇〇分の心電図は、蘇生後のものであり、著明なST低下が認められたが、正常洞調律であり、蘇生直後の午後八時四八分ころの心臓超音波検査で、左心室壁の動きが全く正常であったことからも、心筋梗塞の存在を認めることはできない。

(2) 午後九時三八分の心電図で、急にⅡ・Ⅲ・aVFの各誘導にST上昇が認められたが、午後九時四二分の心電図では、右のST上昇は軽減を示し、一九日午前〇時〇〇分の心電図ではそのST上昇は認められなくなり、心筋梗塞を示す異常Q波も出現せず、その後も退院するまで、心電図上、心筋梗塞の所見は認められなかった。

原告らは、右のⅡ・Ⅲ・aVFの各誘導のST上昇をもって心筋梗塞を示すものとするがごとくであるが、このST上昇は、蘇生後に初めて認められたものであり、また、四分後には軽減し、二時間余り後には元に戻った一過性のものである。普通の心筋梗塞では、ST上昇は数日間持続し、後に異常Q波が出現し、心電図上も心筋梗塞が完成されるが、陽蔵の場合にはそのような所見は認められていないのである。

ちなみに、寺島医師において、虚血性心疾患(冠動脈攣縮)を疑い加療した発作は、右の集中治療室入室後に生じたST上昇発作に対するものである。

(3) 右の心電図のST上昇は、冠動脈の急激な閉塞を示すものであり、左心室の下壁の心筋虚血が生じたものと推認される。

ST上昇は冠動脈の閉塞を示すが、その後に、そのST上昇が軽減・消失したことは、閉塞していた冠動脈がすぐに再開通し、心筋虚血が解除されたものと考えられる。すなわち、一過性のST上昇発作である。

そして、その冠動脈閉塞の機序としては、ここでも冠動脈塞栓症と冠動脈痙攣のいずれかを考え得る。

しかし、このときは、心停止・呼吸停止の後の蘇生という異常な状態の下で、正常冠動脈で、もともと狭心症はないが、蘇生に必要とした大量のカテコールアミンの強力な血管収縮作用により、冠動脈攣縮が引き起こされたものと考えられる。

ちなみに、循環器病センターでは、他にも正常冠動脈で狭心症の病歴のない僧帽弁狭窄症の患者で、心停止・呼吸停止の蘇生後に一過性のST上昇を認め、同様に、カテコールアミンにより冠動脈攣縮が引き起こされた例を経験している。

(4) 陽蔵の集中治療室入室後、シグマート及びニトロールを継続投与したのは、ST上昇発作は速やかに改善し、心筋梗塞には至らなかったが左室の壁運動異常等が認められ(これは虚血に伴う心筋スタンニングである。)、その回復には冠血流の改善が必要であり、そのためにはシグマート及びニトロールなどの冠血管拡張剤の投与を要するからである。

(5) 以上のとおり、集中治療室におけるST上昇発作は、冠動脈攣縮性狭心症でないとしても生じ得る特別の原因によるものであり、陽蔵が冠動脈攣縮性狭心症であったことの根拠とはならない。

(二) 午後九時三八分の心電図上のQ波は、通常の異常Q波ではない。

午後九時三八分の心電図上のⅡ・Ⅲ誘導に見られるQ波は、一心拍ごとに形が変化しており、通常の異常Q波ではない。

すなわち、異常Q波が出た場合、もし、それが急性心筋梗塞を映すものであったとすれば、異常Q波は長く残存するが、一九日午前〇時〇〇分の心電図では、正常化して、そのようなQ波は認められないし、約五か月後の平成元年三月一二日の心電図においても、異常Q波は認められないのであるから、心筋梗塞とはいえないのである。

(三) CPK値の上昇は、電気的除細動の影響が大きい。

(1) CPKの数値四〇〇〇台は、心筋梗塞の時にも出るが、陽蔵の場合、緊急入院時に、心肺蘇生術の一つとしてDCショックを数回にわたり行っており、これを行うと、筋肉が痛んで、心筋だけでなく胸の骨格筋からも酵素が出てCPK値が高くなることから、DCショックの影響が考えられるのであって、CPKの数値を直ちに心筋梗塞に由来するものと見ることはできない。

(2) 通常、心筋梗塞の程度を知るために、CPK中のMBの値が測定され、一応、CPK―MBが総CPKの三パーセントを超すと異常であるとされている。

陽蔵の場合、三パーセントをやや超しているときもあるが、右のとおり、それは心筋梗塞のためではなく、DCショックの影響で心筋が痛んで出た部分が含まれていると考えられ、症状や心電図変化をも合わせ考慮すると、その程度の部分的な超過から直ちに心筋梗塞に由来するものであると言うことはできない。けだし、午後九時三八分の発作だけだと、数分間の発作であるから、酵素はほとんど出ないからである。

(四) 一〇月二一日に見られた左室壁運動異常は、心筋スタンニングが残ったものである。

一〇月二一日の心エコー検査で左室壁運動異常が認められ、その後、シンチグラムで小欠損が認められたが、これらは、いずれも一八日午後九時三八分のST上昇発作の結果生じた心筋スタンニングの所見であり、心筋スタンニングが残ったものと考えられるものであって、心筋梗塞を示すものではない。

心筋は、短時間虚血にした後、すぐに再灌流すると壊死には至らないが、その収縮機能は低下し、機能が回復するにはある程度の時間を要し、このような状態を心筋スタンニングもしくは気絶心筋という。つまり、冠動脈の血流がいったん途絶し、次に再開しても、心臓の筋肉は一種の気絶状態を起こしているわけで、気絶ということは筋肉は生きているけれども、気を失っていて動いていないという状態である。

したがって、異常は残るが、時間的経過とともに、だんだん消退し、回復してくるものである。

しかし、それが心筋梗塞によるものであれば、その異常は、ほとんど一生続くのである。

5 以上のとおりであり、陽蔵には初診から緊急入院の前後にわたって冠動脈攣縮性狭心症の存在は認められず、陽蔵の緊急入院前の心室細動の原因は、僧帽弁狭窄症に合併する冠動脈塞栓症による心筋虚血と認められるものであり、冠攣縮性狭心症に基づく心筋虚血ではない。

二  被告銕は、陽蔵の発作(心筋虚血ないし心室細動発作)の発生を予見できたか否か。

(原告ら)

1 被告銕は、次のとおりの事情から、陽蔵の狭心症の発作発生前の診察時点で同人の右発作発生の危険性があることを予見することは可能であった。

(一) 富山日赤病院及び関西労災病院における治療経過及びその内容(右両病院では狭心症が存在する可能性のあることを前提とする治療がなされていた。)

(二) ニトロールR及びアダラートの投薬の当然の中止は、冠動脈攣縮を増悪するものとして常に念頭に置かなければならないものである。ニトロールRの投与中止後心筋梗塞を生じたという報告例もあり、また、アダラートについては、その薬剤の添付文書に、「アダラートの投与を急に中止したとき症状が悪化した症例が報告されているので、本剤の休薬を要する場合には徐々に減量し、観察を行うこと」と記載されている。

さらに、陽蔵が富山日赤病院及び関西労災病院において投与されていた抗潰瘍剤であるタガメットは冠動脈攣縮を誘発する可能性があり、タガメットによる冠動脈攣縮誘発効果は、同薬剤の投薬中止後も直ちに消失しない可能性があるとともに、長期間の服用により攣縮が生じやすくなる可能性もある。被告銕は、紹介状の投薬リストからタガメットが投薬されていたことを知っていたのであるから、ニトロールR及びアダラートの投薬を中止すれば、タガメットの冠動脈攣縮誘発効果が増強される危険性が生じることを認識していたはずである。

(三) 循環器病センター再診時の陽蔵の症状は、狭心症に特徴的なものであった。

(四) 第二心電図は心筋虚血性変化が明白に表れているものである。

2 仮に、第二心電図において心筋虚血が疑われず、単に徐脈だけであったとしても、①その原因が明らかでなく再発の可能性も十分考えられること、②当該患者の病状等について未だ十分把握していないこと(被告銕にとって陽蔵はよく知らない患者であること)、③前日にニトロールR及びアダラートの投与を中止していること等から、被告銕において陽蔵の狭心症の発症を疑うべきであり、それは可能なことであった。

(被告ら)

1 前記の被告らの主張のとおり、初診時から緊急入院の前後にわたって陽蔵には冠動脈攣縮性狭心症の存在は認められないのであるから、被告銕において陽蔵の緊急入院前の右狭心症の発症を予見すること自体できないことである。

2 また、陽蔵の心室細動発症の原因は、冠動脈攣縮性狭心症に基づく心筋虚血にあるのではなく、僧帽弁狭窄症に合併する冠動脈塞栓症による心筋虚血にあると認められるが、冠動脈塞栓症は、心房内で生じた血栓が何かの拍子に遊離し、血流に乗って冠動脈に詰まるもので、いつ起こるか分からないものであり、かつまた、予防薬ワーファリンの投与中であったとしても起こり得るから、いつどこで発症するかは予見不可能なことである。

三 被告銕の陽蔵に対する処置についての過失の有無

(原告ら)

1 検査不十分、ニトロールR及びアダラートの投薬中止の過失

(一) 前記のとおり、陽蔵には狭心症を疑うべき他病院での治療経過や症状があったのであるから、医師としては、陽蔵について冠攣縮性の狭心症をも疑い、冠攣縮誘発剤を用いた冠動脈造影を行うなど、さらに十分な検査、経過観察及び検討をし、その上で確定診断をなし、それに適した処置、処方をなすべき注意義務があった。

(二) また、ニトロールR及びアダラートの投薬の突然の中止は、冠動脈攣縮を増悪する作用をもたらす危険があり、抗潰瘍剤であるタガメットは冠動脈攣縮を誘発する可能性があり、その冠動脈攣縮誘発効果はその投薬中止後も直ちに消失しない可能性があるとともに、長期間の服用により攣縮が生じやすくなる可能性もあるもので、そのことは被告銕の認識していたはずのことである。

したがって、被告銕としては、陽蔵につき確実な根拠のもとに冠攣縮性の狭心症であることが否定されない場合には、右ニトロールR及びアダラートの両薬を中止する処方の変更を行ってはならない注意義務があった。

(三) しかるに、被告銕は、右各注意義務を怠り、前記のとおり尽くすべき検査を行わず、初診日に、確実な根拠もないのに陽蔵の冠攣縮性の狭心症を否定する確定診断をし、右投薬中止の処方変更を行ったものである。

2 再診時の処置についての過失

(一) 再診時の陽蔵の症状

再診時、陽蔵は、①胸部圧迫感・不快感、②両肩胛骨部痛、③冷汗、④徐脈、⑤第二心電図上のST下降等の症状を呈していたのであり、これらからすれば、陽蔵は心筋虚血(不安定狭心症)の発作を起こしていたことは明白である。

すなわち、右①はいわゆる狭心症の典型的症状であり、②も狭心症の疼痛の特徴で、循環器専門医としては当然に考慮しなければならない症状であり、③については、冠攣縮性の狭心症の症状の一つとされており、④についても、急性心筋梗塞等高度の心筋虚血が長時間持続する場合には、最初の交感神経緊張に続いて、二次的に副交感神経緊張が緊張し、その結果徐脈を来すことがあることは知られており、⑤の第二心電図のST下降のパターンは、典型的な虚血性ST下降のパターンであり、臨床医としてはまず心筋虚血の存在を考えるべきほど明らかな症状である。これらに、⑥前日の、冠攣縮作用防止のためのニトロールR及びアダラートの一気中止の事実を考慮すれば、右来院時、陽蔵が心筋虚血(不安定狭心症)の発作を起こしていたことは明白であり、そのことは心臓疾患治療の専門医である被告銕において認識しうることであった。

(二) 医師のとるべき処置

陽蔵の場合のように、発作が新たに生じたり、比較的安静な時に生じたり、発作時間が一〇ないし二〇分以上の長い狭心症は、一般に不安定狭心症(または遷延性心筋虚血)といわれ、心筋梗塞や致命的不整脈から突然死を招くおそれの大きい、緊急治療を要する病態であり、直ちに入院(できればCCUに入室)させ、厳重な医師の監視下に置き、ニトログリセリン(即効かつ顕著な効果がある。)またはこれに加えてカルシウム拮抗剤を投与する必要がある。また、新たに診断された冠攣縮性狭心症の患者に対しては、冠拡張剤により強力かつ速やかに治療すべきであり、血管攣縮を完全に抑制することが突然死を防ぐ唯一の手段である。

(三) 被告銕の処置

しかるに、被告銕は、陽蔵の右症状がジギタリスの影響によるものと診断し、右のような処置をまったくとらず、症状が改善したとして、「またおかしくなったら来て下さい」という一般的な対応をするに止まり、何の指示もせずに陽蔵を帰宅させたものであり、右被告銕の処置には重大な過失がある。

3 被告らの責任

(一) 被告銕

右被告銕の前記過失行為は、陽蔵に対する不法行為を構成する(被告銕は、県立の循環器病センターという一定の公的社会的責任を負う専門病院の循環器科主任医長を努める医師であり、一般医に比べてより高い注意義務が課せられている。)。

したがって、被告銕は右行為により陽蔵及び原告幸子が被った損害を賠償すべき責任がある。

(二) 被告県

(1) 使用者責任

被告銕は被告県の設置する循環器病センターの医師としてその事業の執行につき原告らに損害を与えたものであるから、右損害につき被告県は被告銕の使用者として民法七一五条の責任がある。

(2) 債務不履行責任

陽蔵は、被告県との間で、昭和六三年一〇月一七日、陽蔵の病状に対し、医学上の技術水準に従い、善良な管理者の注意をもって最善の診療行為をすることを目的とする診療契約を締結し、被告銕は右被告県の診療契約上の債務の履行補助者として陽蔵に対する診療行為を行い、それにつき右注意義務を怠ったものである(債務不履行)。

(被告ら)

1 前記被告ら主張のとおり、陽蔵には冠動脈攣縮性狭心症は存在しなかったのであるから、被告銕には、陽蔵に右狭心症が存在することを前提とする原告ら主張の過失はない。

2 そして、被告銕のなした処方変更も、以下のとおり妥当な処置であり、被告銕に過失はない。

(一) ニトロールR及びアダラートの両薬剤は、ともに抗狭心症薬として知られているものであるが、いずれも血管拡張剤であり、うっ血性心不全の治療薬としても用いられるものであって、僧帽弁狭窄症のような狭窄を持つ疾患では、その血管拡張作用により、血圧低下を来し、失神や突然死などを起こすおそれがある。

したがって、僧帽弁狭窄症など閉塞性弁膜障害の患者では血管拡張薬による治療は利点が少なく、一般的には用いるべきでないとされているのである。

(二) 他方、両薬剤は、狭心症のほか高血圧症に対しても使用されるが、重症の狭心症患者の場合には、投薬の急な中止によって症状の悪化を来すこともあり得る。

(三) しかしながら、前記のとおり、被告銕は、種々検討のうえ陽蔵の疾病が中程度の僧帽弁狭窄症との診断を得たことから、慎重に内服薬の整理(処方)を考え、僧帽弁狭窄症に対して用いられる一般的な薬であるジギタリス、小児用バファリンの継続投与、フルイトランの追加投与をするとともに、前医にて投与されていたニトロールR及びアダラートについては、①僧帽弁狭窄症のほかに、狭心症を併せ持っていることが否定的に診られたこと、②両薬剤とも僧帽弁狭窄症に対しては、症状を悪化させるため慎重投与を要することから、両薬剤の投薬をやめることとしたのである。

(四) 要するに、原告らの主張は、狭心症が否定されていないから、両薬剤の投薬を止めてはならないとするものであるが、狭心症は否定的に診断され、僧帽弁狭窄症が別にある患者にわざわざ好ましくない薬が投与されていたら、循環器専門医としては、これを止めるのが相当であり、被告銕が両薬剤を中止したことにはなんらの過誤もなく、むしろ当然の義務を果たしたものと考えられるのである。

3 また、被告銕が、再診後陽蔵を帰宅させたのも、重篤な心不全や冠動脈攣縮性狭心症は考え難く、危険な兆候も認められず、陽蔵のほうも気分が良くなった由であったので、自宅にて経過観察してもらうこととしたものであって、この点にも過失があるとはいえない。そして、僧帽弁狭窄症において、ジギタリスは心房細動発作に対し予防的に投与しているものであって、陽蔵のような洞調律例にあっては、ジギタリスの投与は必ずしもこれを要するものではなく、他方、ジギタリス効果が過ぎるとジギタリス中毒に陥るおそれもあり、むしろ徐脈時には投与すべきではないから、ジギタリスの服用を中止するように指示した点にも過失はない。

したがって、いずれにしても、被告銕の陽蔵に対する治療・処置には何らの過失もない。

四  被告銕の過失と陽蔵の死亡との間の因果関係の有無

(原告ら)

1 陽蔵の低酵素脳症の原因

陽蔵は、ニトロールRとアダラートの投薬中止という処方変更により、これらの薬剤によって抑えられていた、あるいはそれまで投与されてきたタガメットによる冠動脈攣縮誘発効果も相乗して、狭心症の発作が発現し、これにより心筋虚血となったものである。

また、陽蔵は、再診時に心筋虚血と診断されるべきところを心筋虚血ではないと診断され、そのために心筋虚血に対する適切な治療がなされなかったため心筋梗塞を惹起し、さらには心室細動を惹起し、あるいは狭心症発作による心室細動を直に惹起し、心停止に至り、心停止による循環途絶により低酸素脳症に陥ったものである。

2 死亡の原因(低酸素脳症と死亡との因果関係)

陽蔵は、右低酸素脳症に陥った結果、意識障害だけでなく反射能力も低下し、気管内の嚥下障害も生じ、喀痰排出能力も低下し、また感染もしやすく、嚥下性肺炎や感染症の肺炎や尿路感染を合併し、最終的には肺炎による呼吸不全で死亡したものである。

したがって、被告銕の過失行為と陽蔵の死亡との間には相当因果関係がある。

(被告ら)

陽蔵には冠動脈攣縮性狭心症はなかったから、被告銕の陽蔵に対する治療・処置(薬の処方変更、再診後帰宅させたこと、ジギタリスの投与中止等)と、陽蔵の心筋虚血、心室細動の発症との間の因果関係、したがってまた陽蔵の死亡との間に因果関係はない。

五  陽蔵及び原告幸子が受けた損害

(原告ら)

1 治療関係費 一三七五万六五九八円

(一) 治療費 八五五万六七六五円

(1) 循環器病センター 一九一万〇四〇〇円

(2) 姫路聖マリア病院及び協立温泉病院 六六四万六三六五円

(二) 入院付添費 五〇二万六五〇〇円

(1) 入院期間

① 循環器病センター

昭和六三年一〇月一八日から平成元年四月一八日(一八四日)

② 姫路聖マリア病院及び協立温泉病院

平成元年四月一九日から平成三年一一月七日(九三三日)

(2) 一日当たり 四五〇〇円

(計算式)

4,500×(184+933)=5,026,500

(三) 入院雑費 一三四万〇四〇〇円

(1) 入院期間

前記(二)(1)のとおり

(2) 一日当たり 一二〇〇円

(計算式)

1,200×(184+933)=1,340,400

(四) 交通費 一〇一万一六二〇円

(1) 入院期間

前記(二)(1)のとおり

(2) 一日当たり

① 循環器病センター 六四〇円

② 姫路聖マリア病院 九二〇円

③ 協立温泉病院 一一八〇円

(3) 循環器病センター 一一万七七六〇円

姫路聖マリア病院及び協立温泉病院八九万三八六〇円

(五) 医療費還付金等 二一七万八六八七円

大阪薬業健康保険組合より、本人高額療養費及び一部負担還元金として二一七万八六八七円が支払われた。

2 逸失利益

(一) 退職金 二二一五万三八四六円

陽蔵は、昭和六二年一二月から訴外サンエス石膏株式会社(以下「訴外会社」という。)の代表取締役の地位にあったが、平成元年一二月退職し、訴外会社の退職金支給規定に基づき、合計金四〇〇〇万円の退職金の支給を受けた。

訴外会社の「取締役退職慰労金支給規定」によれば、社長並びに代表取締役の場合は、退任当時の月額報酬の四倍(四か月分)に勤続年数を乗じた金額と定められているところ、昭和六三年度の就労可能年数表によれば満六二歳の男性の就労可能年数は七年とされているので、陽蔵は、本件により死亡しなければ満六九歳までの八年間訴外会社の代表取締役として稼働でき、その場合にはさらに退職金として少なくとも(在任期間が六年間であったとしても)二八八〇万円(一二〇万円×六年×四=二八八〇万円)を得られたはずであり、ホフマン係数を用いて、その逸失利益の現価を求めると、次のとおり二二一五万三八四六円となる。

(計算式)

28,800,000×0.7692307

=22,153,846

(二) 収入 七四九一万八六一七円

(1) 受傷後死亡まで

① 労働能力喪失率

一〇〇パーセント

② 受傷時満年齢 満六二歳

③ 昭和六三年度の年収

一二二〇万〇三九〇円

④ 就労可能年数 六年

(計算式)

12,200,390×(100÷100)

×(1,117÷365)=37,336,536

(2) 死亡後就労可能年齢まで

① 生活費控除 四〇パーセント

② 就労可能年数 六年

③ 六年間に対するホフマン係数5.134

(計算式)

12,200,390×(1-0.4)

×5.134=37,582,081

3 慰謝料

(一) 陽蔵 二〇〇〇万円

(二) 原告幸子 四〇〇万円

4 弁護士費用

(一) 陽蔵 七四万五〇〇〇円

(二) 原告幸子四一万五〇〇〇円

5 以上の陽蔵の損害合計

一億三六五七万四〇六一円

右の原告らの相続分 原告幸子

六八二八万七〇三一円

原告恭子 三四一四万三五一五円

原告亜矢子 三四一四万三五一五円

(原告幸子の損害は、右相続分と固有損害分とを合わせて七二七〇万二〇三一円となる。)

6 よって、原告らは、被告銕に対し、不法行為による損害賠償請求権に基づき、被告県に対し、不法行為(使用者責任)もしくは債務不履行による損害賠償請求権に基づき、連帯して、原告幸子に対し七二七〇万二〇三一円、原告恭子及び原告亜矢子に対し各三四一四万三五一五円並びに右各金員に対する昭和六三年一〇月一八日(不法行為もしくは債務不履行の日)から支払済みに至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金を支払うことを求める。

(被告ら)

原告ら損害主張はすべて争う。

殊に、陽蔵が役員に就任していた訴外会社はいわゆる同族会社であると聞き及んでおり、陽蔵の収入はその役員報酬であり、その報酬額は企業利益の名目的な配分額にすぎず、その内には株主配当に相当するような金額も含まれているものと思料される。したがって、逸失利益等算定の基礎額としては、陽蔵の労働による収入額を採用されるべきである。

第四  判断

一  争点一(陽蔵の狭心症の有無)について

1  疼痛等について

(一) 狭心症は、心筋が一過性に虚血(酸素欠乏)に陥ったために生ずる特有な胸通ないし胸部不快感を主症状とする臨床症候群である。そして、狭心症の疼痛(狭心痛)は、通常は前胸部、特に胸骨の裏側に感じられるが、肩、背中(肩甲骨部を含む。)などに感じる症例もあるとされ、また、冠攣縮性狭心症の場合には、悪心・嘔吐、冷汗、失神等を来すことも稀ではないことが、医学的知見とされている。(甲九、一一、一五)

(二) 陽蔵が、昭和六三年一月二一日胸部痛を訴えて富山日赤病院に緊急入院し、また、同年一〇月一八日の循環器病センターにおける再診時に、両肩甲骨部痛を訴え、冷汗があったことは前記(第二、二2(一)(2)、(三)(2))のとおりである。

2  前医の診断・治療について

(一) 陽蔵が、富山日赤病院及び関西労災病院においてニトロールR及びアダラートの投与(各四錠/日)を受けていたことは前記(第二、二2(一)(2)、(3))のとおりである。

そして、ニトロールR(内服)は、血管拡張作用(静脈系容量血管を拡張することにより、静脈環流の減少、肺動脈楔入圧及び左室拡張終期圧の低下をもたらすと同時に、抹消動脈を拡張して総抹消血管抵抗を減少させ、これらの作用により心筋の酵素需要を軽減させる作用)を有し、狭心症発作とその予防に効果が認められている薬品であり、アダラートは、筋の興奮収縮連関物質であるカルシウムの血管平滑筋及び心筋細胞内への流入を抑制して、冠血管を拡張するとともに全抹消血管抵抗を減少させ、高血圧作用と心筋酸素需要バランスの改善作用があり、冠血管攣縮を抑制することにより心筋虚血部への酸素供給を増加する作用がある薬品で、狭心症と高血圧症適応薬とされている(甲一四)ところ、陽蔵には高血圧症はなかった(被告銕)。

したがって、富山日赤病院及び関西労災病院における右両薬の処方・投与は、陽蔵の担当医が陽蔵の狭心症の存在も考えていたことを窺わせるものといえる。

(二) 被告らは、①富山日赤病院は、陽蔵の冠動脈造影の結果が正常であったから、不安定狭心症を否定し、冠攣縮性狭心症の診断根拠とされるエルゴノヴィン負荷試験を行わなかったものと推認される、②もし、陽蔵に狭心症が疑われたのであれば、発作が発生した場合のことを考えてその即効薬のニトログリセリン錠が処方されたであろうが、その処方がなされた形跡はない、③被告銕において関西労災病院に陽蔵へのニトロールR及びアダラート投与の理由を尋ねたところ、同病院においては富山日赤病院で投与されていたから引き続いて投与していた旨の返答であったので、関西労災病院において陽蔵に狭心症の疑いをもっていたとはいえない旨主張する。

しかしながら、冠動脈に器質的病変が認められなくても狭心症である例が存在することから、冠動脈造影(この検査方法は、冠動脈の器質的病変の有無・程度・範囲、手術適応の有無等の判定のために行われるものである。)の結果冠動脈に狭窄等の器質的病変が認められないからといって、狭心症が存在しないと診断することはできないことが医学的知見とされており(甲九)、また、冠動脈造影時に冠動脈攣縮の自然発生をみることは偶然である(したがって、冠動脈造影時に冠攣縮が認められなかったからといって狭心症の存在は否定できない。)ことから、冠攣縮性狭心症の確定診断のための一検査方法としてエルゴノヴィン負荷試験の方法が広く行われている(もっとも、右方法も完全なものではない。)ところ(甲一〇)、富山日赤病院及び関西労災病院で右の検査が行われた形跡はないが(循環器病センターでも行われなかった。)、そうだからといって右両病院の医師が陽蔵の狭心症の存在の可能性を否定していたことにはならないし、右両病院の右両薬の投与が、高単位の量で(被告銕)、長期間継続されてきたことに照らしても、被告らの前記①の主張は採用できない。

また、前記ニトロールR及びアダラートの作用・効果に照らせば、陽蔵に対して狭心症発作の即効薬のニトログリセリンが処方されていなかったからといって、富山日赤病院及び関西労災病院の医師において陽蔵の狭心症を否定していたものとはいえないし、被告銕が被告ら主張のような関西労災病院からの返答を受けたことを示す記録はない(もし、被告銕が被告ら主張のような回答を受けていたのであれば、その事柄の性質上その旨の記録が残されていてしかるべきものと考えられる。)から、被告らの前記②、③の主張も採用できない。

そして、被告銕は、陽蔵には問診等をして狭心症に特徴的な症状はないかどうか調べたが、そのような症状は認められなかった旨供述し、陽蔵が前記のとおり胸部痛を訴えて富山日赤病院に入院し、循環器病センターの再診時に両肩甲骨部痛を訴え、冷汗が見られたことについて、被告銕が陽蔵診察当時認識していたことは、同被告本人尋問の結果やカルテ(甲一)の記載から明らかである。

それにもかかわらず、被告銕は右陽蔵の症状は狭心症の症状ではないと診断したものであるが、その診断をなすにつき最も重視したことは、富山日赤病院における冠動脈造影のビデオテープにおいて、僧帽弁狭窄症が認められたが、冠動脈は正常な動きをし、そこに狭窄等の器質的病変が認められなかった点にあったことは、同被告本人尋問における供述から明らかである。

しかし、冠動脈造影で冠動脈に狭窄等の器質的病変が認められないからといって狭心症否定の確定診断ができないことは前述のとおりであり、そうであれば、陽蔵の訴える症状は狭心症にも見られる症状であり、前医においてもその可能性を意識して投薬していたように窺える事情があったのであるから、前記陽蔵の症状の原因につきさらに厳密な診察・検査を実施する必要性があったものというべきである。

3  心電図について

(一) 第二心電図について

(1) 再診時の第二心電図には、①洞徐脈(心拍数約45.5/分)、②ST下降(Ⅱ、Ⅲ、aVF誘導には軽度〔0.5ミリメートル前後〕のST下降〔水平型ST下降〕、V4、V5、V6誘導には明らかなST下降〔下降型ST下降〕)、③移行帯がV2とV3誘導の間にある(正常ではV3誘導にある)という異常が認められる。そして、心電図上の右のような異常(下降型ST下降、水平型ST下降)は、心電図学的には虚血性ST下降と評価、認識されうるものである。(鑑定)

(2) 村松鑑定は、QT間隔は脈拍数によって変動するため、脈拍数(RR間隔)により補正された補正値QTcによって評価されなければならないとし、第二心電図におけるQTcは0.438秒で、正常0.34〜0.40秒に対して延長しており、これは異常(心筋虚血と示すもの)であるとする。

しかし、QTcの正常範囲は0.35〜0.44秒であるとも指摘する医学文献もある(甲第八号証、乙第八号証。なお、心室細動や実質的に不整脈になる場合は、QTcが0.55秒以上のより著明なものをいい、心室細動などの致死的不整脈を来すようなQTc延長は、不整脈の薬を服用していたような〔陽蔵のような〕後天性の場合は0.5秒以上ともされている〔乙第八号証〕。)。

したがって、第二心電図のQTc値が異常な延長を示しているとは断定できない。

(3) (ジギタリス効果との関係)

ところで、陽蔵は、第二心電図がとられた再診当時までジギタリスを服用していた。また、その前日の初診の際に、それまで服用を続けていたニトロールR、アダラート、リスモダン及びタガメットの投与が中止されていた(なお、アダラートについては、その説明書に、カルシウム拮抗剤の投与を急に中止したとき症状が悪化した症例が報告されているので、ニトロールRの休薬を要する場合は徐々に減量し、観察を十分行うことと記載されている〔甲一三。同説明書には、僧帽弁狭窄のある患者には慎重に投与することとの注意書きもなされている〕)。

そして、心電図上のいわゆる下降型ST下降と盆状型下降は、ジギタリス効果(または中毒。以下「ジギタリス効果」という。)を反映する所見でもあり、ジギタリス服用中の僧帽弁狭窄症患者にも診られるものであることが指摘されており(乙三、鑑定)、第二心電図の異常がこのジギタリス効果によるものかどうかが問題となる(被告銕が、陽蔵の初診の際にはジギタリスの投与を継続してこれを中止しなかったのに、徐脈を確認した再診の際にジギタリスの使用を中止したことは、同被告において右徐脈の原因がジギタリス効果による可能性を考えていたことを推定させる。)。

しかし、ジギタリス効果に基づく主要な所見は、①心電図のPR間隔の延長(徐脈)、②PQ間隔(時間)の延長(第一度房室ブロック)、③ST部分の盆状下降または直線状下降並びにT波の平定化または陰性化、④QT間隔の短縮、⑤多彩な重症不整脈(特にジギタリス中毒のとき)である。(鑑定)。

ところが、第二心電図では、徐脈とともにV4、V5、V6誘導でST部分の下降型下降が認められるが、PQ間隔は正常で、QT間隔の短縮は認められないので、第二心電図はジギタリス効果を積極的に表明するものとはいえないところがある。(鑑定)

(4) (低カリウム血症との関係)

心電図上で陽性のU波の増大が認められる場合には低カリウム血症が疑われる所見とされ、その低カリウム血症の心電図学的特徴として、①U波の増大、②T波の平定化または陰性化、③ST部分の低下、④P波振幅の増大(Ⅱ、Ⅲ、aVF・右心性)、⑤PQ時間の延長、⑥不整脈(心房期外収縮、心房頻拍など)が指摘されている。(鑑定)

そして、第二心電図では、右③のST低下は認められるが、①のU波は、V1〜V6誘導に認められるものの異常な増大は認められず、その他の右②、④、⑤、⑥の所見も認められない。(鑑定)

また、初診時に行われた血液検査で、カリウムの数値4.53mEq/lと正常であった(正常範囲3.5ないし5.0。検査結果票・甲一〔一四頁以下〕)。

そして、陽蔵につき低カリウム血症の発症を認めるカルテの記載はまったくない。

これらの点を考慮すれば、再診時に陽蔵が低カリウム血症にあったとするには疑問があるというべきである。

(なお、村松鑑定は、第二心電図において、低カリウム血症を示唆する心電図所見はみられないとし、その根拠の一つとして、Weaverらによって示された低カリウム血症の診断基準(評点法)によると、第二心電図は合計評点が一点であり、低カリウム血症とは診断されない(二点が低カリウム血症の疑い、三点〜七点が確実な低カリウム血症である)ことをあげ、その中で、UV3誘導の振幅が2.0ミリメートル以上である場合は評点が二点であるところ、第二心電図の場合は、2.0ミリメートル以上でないから〇点であるとしているが、心電図の電気的な動きは基準線から始まってお互いの波が重なりあっていることから振幅は最下部(Q波の立ち上がり)を基準線として計測すべきであり、そうすると、第二心電図では、UV3誘導の振幅は2.0ミリメートルで評点二点と見うる余地もあり、右評点法は、陽蔵が低カリウム血症でなかったことの根拠とはなしえない。)

(二) 緊急入院時以降の心電図について

陽蔵が緊急入院した一〇月一八日の午後九時三八分の心電図(甲七〔三、四頁〕)では、Ⅱ、Ⅲ、aVF誘導にSTの上昇(心筋梗塞の初期波型)が出ており、Ⅱ、Ⅲ誘導には異常Q波も発現し、同月二〇日午前一時の心電図(甲七〔二三、二四頁〕)では、STが基線に向かって下降し、STの終末部が陰性となり(T終末部陰転)回復に向かっている。さらに、同月二一日午前九時三〇分には、STが基線に近づき陰性Tはさらに深くなり、対称性の深い冠性Tが見られる状態となり、回復している(甲七〔二九、三〇〕)。カルテにも、「Ⅱ、Ⅲ、aVF、V4―V6coronary(冠性)T様」と記載されている(甲二〔一三頁〕)。

右心電図上の異常・変化は、心筋梗塞の場合に見られるような変化を辿っており、その梗塞部位は、Ⅱ、Ⅲ、aVF誘導に異常の現われる下壁梗塞であり、心筋虚血から心筋梗塞へ進んだと見ることもできるものといえる。(甲九、一五、乙九、証人弘田)

4  再診時の硫酸アトロピン静脈注射の効果

被告らは、再診の際に硫酸アトロピン一アンプルの静脈注射を行ったところ、陽蔵の冷汗は消失し、心拍数は約一〇分後に六六/分まで増加し、気分不良も軽減する効果があったことを捉え、硫酸アトロピンは徐脈に対しては効果があるが、狭心症には効果がない薬であるから、右のような硫酸アトロピンの効果があったことは陽蔵が狭心症でなかったことを示すものである旨主張し、なるほど被告銕本人尋問の結果によれば、硫酸アトロピンは、徐脈に対しては効果があるが狭心症には効果がないことが認められる。

しかし、被告銕本人尋問の結果によれば、右硫酸アトロピンの投与後、徐脈についても、通常であれば心拍数が一〇〇位まで上昇するはずであるのに六六までしか増加せず、その効果はあまり上がらなかったことが認められ、したがって、右注射後気分不良が一時的に改善されたように見えたからといって、陽蔵の狭心症の存在を否定的に見うる程の症状の改善があったとはいい難い。

5  緊急入院以降の諸検査結果について

(一) 心エコーについて

緊急入院後の一〇月二一日の心エコー検査の結果、同日のカルテの記載及び寺島医師の聖マリア病院に対する紹介状の記載は前記(第二、二2(四)(2)、(五)(1)(6))のとおりであり、右心エコー検査の結果では回旋枝及び右冠状動脈領域に共力失調、壁運動低下の異常が認められ、タリウムシンチグラムにて小欠損が確認されているところ、これらは心筋壊死の所見を表すものと見うるものである。

被告銕は、緊急入院後陽蔵が蘇生した直後の心電図が正常に回復し、また、心エコーによる心臓の動きも正常であったことは、心筋梗塞を否定する根拠となる(心筋梗塞であればその部分の壁運動は悪化が残存するからである。)とし、また、緊急入院当日午後九時に集中治療室に入室後の午後九時三八分にST上昇発作(冠動脈の攣縮によると思われる虚血症の発作)が起こったが、それも数分後に回復し、異常Q波が消失したことも心筋梗塞を否定する根拠となる(心筋梗塞であれば、ST上昇が何日も残り、異常Q波も終始残存するはずである)旨、また、右冠動脈攣縮はカテコールアミンの血管収縮作用により引き起こされたものと考えられる旨、被告らの主張に副う供述をする。

しかし、被告銕は、他方で、狭心症や心筋梗塞の場合に、心電図上異常Q波が出るのが普通であるが、急性期には出ない場合もあり、軽度の心筋梗塞の場合には消失することもあること、一一月二五日のタリウムシンチグラムの検査結果は、小欠損を示すものであり、心筋の脱落・壊死を示すもので、心筋梗塞を示すものと見ることもできること(平成四年一二月一四日期日調書三三、三四頁)、一一月二一日に心エコーで認められた壁運動の異常は、緊急入院当日の午後九時三八分に心電図上認められた発作(軽度の心筋梗塞だと思うが。)の壁運動の異常が残存したものと思われる旨供述し(同期日調書三七頁、平成五年六月三〇日期日尋問調書八七、八八頁)、また、心エコーで壁運動に異常が認められない場合でも、タリウムシンチグラムの検査で異常が認められる場合もある旨供述している(平成五年六月三〇日期日調書八八、八九頁)。

また、もし冠攣縮が蘇生直後に使用されたカテコールアミンにより一時的に惹起されたものであるなら、その薬効がなくなって以降は冠攣縮の心配がないことになるが、実際にはそれ以降も陽蔵に対して狭心症治療薬のシグマート、ニトロールが継続的に高単位で投与されたことが認められる(被告銕)。

そして、陽蔵は、昭和六三年一月二〇日胸部痛を訴えて富山日赤病院の診察治療を受け、同病院及び関西労災病院の治療を継続的に受けてきたが、その間格別異常な症状を呈した様子もなかったのに、循環器病センターの初診時に被告銕よりニトロールR、アダラート等の投薬を中止されたその翌日に両肩甲骨部痛や徐脈等の症状が出現し、そのために被告銕の再診を受けてジギタリスの服用を中止されて帰宅して間もなく呼吸停止の状態となったものであって、このような陽蔵の病状の推移・変化と併せて緊急入院後の陽蔵の症状・検査結果等を考えれば、陽蔵の冠動脈攣縮が緊急入院後のカテコールアミンの使用により生じたものとするには大きな疑問が残る。

以上の点を考慮すれば、前記被告らの主張及びこれに副う被告銕の供述(証人寺島の証言についても同様)部分は採用できない。

(二) 血清酵素の変化について

(1) 心筋梗塞の補助診断として血清酵素の検査方法の一つとしてCPK検査(心筋梗塞により心筋の壊死が生じて心筋の酵素が血液に逸脱し、酵素の数値が増えることから、その数値を調べることにより心筋の壊死、心筋梗塞の診断をするもの)が一般的に行われている。そして、特にCPK―MBの上昇は心筋梗塞に特異的であり、その変化も速やかで、発症後六時間以内に上昇し、三ないし四日で正常化するものとされている。(甲九、一五、被告銕)

他方、心肺蘇生術、DCショックなどでCPKが増加することのあることも指摘されている。(乙六、被告銕)

そして、CPK―MBが総CPKの少なくとも三パーセント以上を占めることとならないと、心筋由来のCPK上昇とは考えられないとされている。(弁論の全趣旨)

(2) 陽蔵のCPKは、次のとおりであった(正常範囲は、CPK五ないし三〇、MB〇ないし一〇)。

一〇月一八日午後一一時 CPK一三四八(甲四〔一頁〕)

一〇月二〇日午前一時 CPK 四四一九(甲四〔三頁〕)

また、CPK―MBが総CPK中において占める割合が三パーセントを超えているものも次のとおり見られる。(甲四〔一ないし三丁〕)

一〇月一九日午前一時 3.4パーセント

同日午後一時 4.9パーセント 一〇月二〇日午前一時 四パーセント

同日午前五時 4.3パーセント

同日午前九時 4.4パーセント

(3) そうすると、右検査結果は、CPKの異常な上昇が単にDCショックによるものだけでなく、心筋梗塞に由来する可能性を示唆するものといえる。

6  主治医による冠攣縮性の狭心症の発症の自認について

陽蔵の循環器病センターから聖マリア病院への転院の際に寺島医師が書いた紹介状の記載内容に照らせば、陽蔵の緊急入院後は、被告銕及び寺島医師においては、陽蔵の症状が、少なくとも狭心症によるものである可能性の高いものと診断して陽蔵に対する治療を継続していたものと推認できる。

証人寺島は、右紹介状の記載内容は、そこに記載されている心電図、心エコー等実施の時間的関係を誤って事実に反する記載をしたものである旨供述するが、被告銕と共に陽蔵の主治医としてその治療に当たっていた寺島医師が、陽蔵の転院先に対する紹介状に右供述のような誤った記載をしたとは考え難い。

7  村松鑑定は、第二心電図及び陽蔵の病歴等からみて、H2受容体の作用を抑制する作用を有し、冠動脈攣縮を誘発する可能性のあるタガメットの陽蔵に対する投与が初診時に中止されたが、タガメットの冠動脈攣縮誘発効果は直ちに消失せずに残存している可能性があり、そこへ以前から投与されていたニトロールR及びアダラートが同時に中止されたため、タガメットの冠動脈攣縮効果が増強されて、不安定狭心症または切迫性心筋梗塞と思われる病態が発現したものと推定する。

しかるところ、陽蔵の循環器病センター初診までの病歴、症状、治療経過、その後の循環器病センターにおける診療経過や検査結果並びに陽蔵の症状ないし病態等前記の諸点を考慮すれば、陽蔵の緊急入院時の病状及びその発現については右村松鑑定の推定するところが最も合理的であり、そのように推認するのが相当である。

乙一(弘田雄三作成の意見書)は、陽蔵は緊急入院時に心室細動を生じており、その心室細動の直接原因は右冠動脈または左冠動脈回旋杖の病変による心筋虚血であったと推定され、右病変は僧帽弁狭窄症に合併する冠塞栓症の可能性が高いとし、証人弘田雄三は、右推定・判断の理由として、一般的に僧帽弁狭窄症の場合には冠塞栓症は非常に起こりやすいからである旨証言する。

しかし、一般的に僧帽弁狭窄症の場合に冠塞栓症が起こりやすいからといって、そのことから直ちに陽蔵もそうであったとすることができないことはいうまでもないし、冠塞栓症が生じた可能性を示すような検査結果の存在も認められず(心エコーで血栓の存在も認められていない。)、陽蔵の循環器病センター初診に至る経過・症状やその後緊急入院に至るまでの症状・治療内容等に即して考察しても、陽蔵の心室細動の原因が冠塞栓症にあった可能性は少ないものと見るのが合理的である。

また、被告らは、僧帽弁狭窄症と冠攣縮性狭心症の合併症例は見られないとして陽蔵が冠攣縮性狭心症であった可能性はない旨主張し、確かに右症例の存在を主張する文献や報告例は見当たらないことが認められる(証人弘田雄三、被告銕)。

しかし、僧帽弁狭窄症に冠攣縮性狭心症は合併しないとする報告や文献も見られず、また、心臓弁膜症には動脈硬化による虚血性心疾患は合併しないといわれながら、最近になってその合併が報告されている例もあることが認められるから(甲三六)、僧帽弁狭窄症と冠攣縮性狭心症の合併症例が見当たらないからといって、陽蔵の冠攣縮性狭心症が否定されるものではない。

したがって、被告らの右主張は採用できない。

二  争点二(陽蔵の発作の予見可能性)について

被告銕は、陽蔵診察当時、循環器疾患の専門病院である循環器病センターの診療部循環器科主任医長を務めていたもので、心臓疾患及びその治療について相当高度の専門知識を有していたものと推認できること、冠動脈造影ビデオテープでは狭窄等の器質的異常は認められず、また、僧帽弁狭窄症と冠攣縮性狭心症の合併症例も見当たらなかったが、再診時には、陽蔵は狭心症に見られる症状を訴えあるいは示しており、その際の心電図(第二心電図)は心筋虚血が疑われるような異常波を示していたこと、右異常は被告銕において陽蔵に対するニトロールR及びアダラートの各服用を中止させて間もなく発現したものであること等に照らし、被告銕において、少なくとも再診時には陽蔵の狭心症(心筋虚血)発作を予見することは可能であったと認めるのが相当である。

三  争点三(被告銕の過失)について

1 (被告銕の過失)

被告銕は、陽蔵の担当医として、陽蔵が前医より狭心症の治療を受けてきたことが窺われたのであるから、陽蔵の症状に細心の注意を払うとともに、狭心症の存否について厳密な検査(エルゴノヴィン負荷試験等)を施すなどしたうえで確定診断をなし、それに基づいて適切な治療を行うべき注意義務があり、また、前述の事実関係に照らせば、狭心症症状を放置すれば発作の発現により生命にも危険が生じるおそれがあるから、少なくとも再診時には、当時の陽蔵の症状を改善させるため、陽蔵に対しニトログリセリン又はニトロールを服用(あるいはスプレー口腔内噴霧)させ、同人の自覚症状及び心電図変化を観察し、その改善がみられないときには集中治療室に入院させ、積極的な薬物治療を行うべきで注意義務があったものというべきであり、そうすれば陽蔵の狭心症の発症は回避できた可能性があったと認められる(鑑定)。

しかるに、被告銕は、初診時から陽蔵の狭心症につき否定的に診断して、右のような検査や治療を行わなかったものであるところ、すくなくとも被告銕が再診時に陽蔵に対してなすべき治療・処置を行わなかったことについては、右注意義務を怠った過失があり、不法行為を構成するものというべきである。

2 (被告県の責任)。

被告銕の右不法行為は、使用者たる被告県の設置する循環器病センターの事業(治療行為)の執行につきなされたものであることは前述の事実関係から明かである。

そうすると、被告県の債務不履行の点を検討するまでもなく、被告県は不法行為者の使用者責任に基づき、被告銕の不法行為によって陽蔵及び原告幸子に生じた損害を賠償すべき責任があるというべきである。

四 争点四(被告銕の過失と陽蔵の死亡との因果関係)について

前述の事実関係からすれば、陽蔵の緊急入院時の直前の心筋虚血ないし心室細動、さらには低酸素脳症は、前記被告銕の過失により生じたもので、これと相当因果関係のあるものと認められる。

そして、前記認定の陽蔵の心室細動発症後死亡までの病状及びその内容並びにその死因等にかんがみてれば、陽蔵は、本件心室細動による低酸素脳症のために体力、免疫力低下をきたし、これが死亡の原因となった肺炎の発症及びその増悪をもたらしたものと推認され、したがって、被告銕の過失と陽蔵の死亡との間には相当因果関係があるものと認められる。

五  争点五(損害)について

1  治療費関係

(一) 入院期間(前記認定)

(1) 循環器病センター

昭和六三年一〇月一八日から平成元年四月一八日(一八四日)

(2) 姫路聖マリア病院及び協立温泉病院

平成元年四月一九日から平成三年一一月七日(九三三日)

(合計一一一七日)

(二) 治療関係費 一一六二万七九七八円

(1) 治療費 八五五万六七六五円

証拠(甲第一九号証の一ないし一六、第二〇号証の一ないし二九、第二一号証の一ないし一〇、原告幸子)によれば、陽蔵は緊急入院の日以降死亡まで、低酸素脳症により生じた病状の治療のため、次のとおり入院治療費を要したことが認められる。

① 循環器病センター 一九一万〇四〇〇円

② 姫路聖マリア病院及び協立温泉病院 六六四万六三六五円

(2) 入院付添費 三九〇万九五〇〇円

証拠(甲第二ないし六号証、第一七、一八号証、原告幸子)及び弁論の全趣旨並びに陽蔵の緊急入院以後の病状からすれば、前記の陽蔵が入院した各病院は完全看護の態勢にあったが、原告幸子ら陽蔵の家族は、陽蔵が植物人間の状態にあったことからその入院期間中その付添い看護をしたことが認められ、右事情を考慮すれば、被告銕の過失と相当因果関係のある損害としての右陽蔵の入院期間(合計一一一七日)中の付添費は、一日三五〇〇円、合計三九〇万九五〇〇円と認めるのが相当である。

(3) 入院雑費 一三四万〇四〇〇円

陽蔵が前記入院期間(合計一一一七日)中、一日一二〇〇円の割合による合計一三四万〇四〇〇円の入院雑費を要したことは、経験則上これを認めることができる。

(4) 交通費

原告らは、陽蔵において付添看護人が付添看護のため陽蔵の入院先病院に通うための交通費相当の損害を被った旨主張するが、原告幸子本人尋問の結果によれば、右付添をしたのは原告幸子ら陽蔵の近親者であったことが認められるところ、右のような近親者の付添看護費用のほかの交通費は、被告銕の不法行為と相当因果関係にある損害とは認められないというべきである。

したがって、右交通費についての原告らの主張は採用できない。

(5) 医療費還付金等 二一七万八六八七円

陽蔵につき、大阪薬業健康保険組合より本人高額療養費及び一部負担還元金として二一七万八六八七円が支払われたことは原告らの自認するところである。

(6) 前記(1)ないし(3)の合計一三八〇万六六六五円から(5)の二一七万八六八七円を控除すると一一六二万七九七八円となる。

(三) 逸失利益

(1) 退職金 二二一五万二九六〇円

証拠(甲第二三号証、第二七、二八号症、原告幸子)によれば、陽蔵は、昭和六二年一二月から訴外会社の代表取締役の地位にあったが、平成元年一二月退職し、訴外会社の退職金支給規定に基づき、合計四〇〇〇万円の退職金の支給を受けたこと、訴外会社の「取締役退職慰労金支給規定」によれば、社長並びに代表取締役の場合は、退任当時の月額報酬の四倍(四か月分)に勤続年数を乗じた金額と定められているところ、昭和六三年度の就労可能年数表によれば、満六二歳の男性の就労可能年数は七年とされていること、陽蔵は、本件により死亡しなければ満六九歳までの八年間訴外会社の代表取締役として稼働でき、その場合にはさらに退職金として少なくとも(在任期間が六年間であったとしても)二八八〇万円(一二〇万円×六年×四=二八八〇万円)を得ることが可能であったこと、以上の事実が認められる。

被告らは、訴外会社が陽蔵の同族会社で、陽蔵の収入はその役員報酬であり、その報酬額は企業利益の名目的な配分額にすぎず、その内には株主配当に相当する金額も含まれているかのように主張するが、右被告ら主張のような事実関係を窺わせる証拠はない。

そして、右陽蔵の逸失退職金につき、ホフマン係数(0.7692)を用いてその現価を求めると、次のとおり二二一五万二九六〇円となる。

(計算式)

28,800,000×0.7692=22,152,960

(2) 収入 七四九一万五六八八円

証拠(甲第二七、二八号証、原告幸子)によれば、陽蔵は受傷時満六二歳で、当時(昭和六三年度)少なくとも一二二〇万〇三九〇円の年収を得ていたことが認められるところ、陽蔵の就労可能年数は死亡時から六年、生活費は収入の四〇パーセントと考えられるから、陽蔵の受傷後死亡まで及び死亡による逸失利益を年別のホフマン式により年五分の割合による中間利息を控除して算定すると、次のとおりとなる(円未満切り捨て・以下同じ)。

① 受傷後死亡まで 三七三三万六五三五円

(労働能力喪失率) 一〇〇パーセント

(休業期間) 六年

(計算式)

12,200,390×(100÷100)×(1,117÷365)=37,336,535

② 死亡後就労可能年齢まで 三七五七万九一五三円

(六年間に対するホフマン係数5.1336)

12,200,390×(1-0.4)×5.1336=37,579,153

(四) 慰謝料

(1) 陽蔵分 二〇〇〇万〇〇〇〇円

本件被告銕の不法行為の態様、陽蔵の受傷の内容、程度、治療経過、入院期間、その他諸般の事情を考え合わせると、陽蔵の慰謝料額は二〇〇〇万円とするのが相当である。

(2) 原告幸子 三〇〇万〇〇〇〇円

原告幸子は陽蔵の妻であり、陽蔵の受傷・入院により陽蔵の死亡に比肩するような精神的苦痛を被ったものと認められるところ、陽蔵の受傷、後遺症の内容・程度、陽蔵の前記慰謝料額等に照らせば、原告幸子の精神的苦痛に対する慰謝料は三〇〇万円をもって相当と認める。

(以上の損害合計は、陽蔵分一億二八六九万六六二六円、原告幸子分三〇〇万円となる。)

(五) 弁護士費用

本件事案の内容、審理経過、認容額等に照らすと、陽蔵及び原告幸子が被告らに対して賠償を求め得る弁護士費用の額は次のとおりとするのが相当と認められる。

(1) 陽蔵 五七〇万〇〇〇〇円

(2) 原告幸子 三〇万〇〇〇〇円

(六) 以上の陽蔵の損害合計 一億三四三九万六六二六円

右の原告らの相続分 原告幸子 六七一九万八三一三円

原告恭子 三三五九万九一五六円

原告亜矢子 三三五九万九一五六円

(原告幸子の損害は、右相続分と固有損害分とを合わせて七〇四九万八三一三円となる。)

第五  結論

以上によれば、原告らの請求は主文第一項掲記の限度で理由があるからこれを認容するが、その余は理由がないから棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条本文、九三条一項本文、仮執行宣言につき同法一九六条一項を、仮執行の逸脱宣言につき同法一九六条三項を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官竹中省吾 裁判官小林秀和 裁判官加藤員祥は、転補のため署名捺印することができない。裁判長裁判官竹中省吾)

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